路上の羊

聖書の通読に挑戦中

創世記:20-29

今日は創世記の20章から29章まで読み進めた。アブラハム・イサク・ヤコブの3代に渡る物語がメイン。この辺りではしきりに、妻が美しすぎて自分が殺されてしまうのではないかと恐れ、妻を妹として他国に入ってはいざこざが起きて追い出されるという描写が登場する。そもそもなぜ妻が美しすぎると殺されるのかちょっとよく理解ができない。妹だとしても同じなのではないか。まあ、そこはあまり気にするところではないかもしれない。このエピソードはアブラハムやイサクが様々な地を放浪する理由を説明するためのものなのだろうと思う。

ヤコブに関する話は非常に強烈だ。ヤコブは兄から長子の権力をうまく譲り受けたうえ、老いて盲目となったイサクが兄を祝福しようとすると、母からの助言で兄に成り代わって祝福を奪い取ってしまう。これがきっかけでヤコブを肉しむようになった兄から逃げる途中で、神に天国へといたる階段を見せられ、約束を果たすまで必ずお前を守るといわれる。ヤコブが成したことは普通に考えれば悪しき行いであって、少なくともカインのように罰せられてもおかしくないように感じるのだが、そういうことはない。ただ、神もヤコブを積極的に祝福しているという感じではなく、なんだかアブラハムとの契約を順守するためにヤコブを守っているというような感じがする。契約を果たすことが第一優先であって、個々の行いについてはとやかく言うことはないという考えなのだろうか。

創世記 1-19章

今日から聖書の通読を始めることとする。創世記のエピソードには馴染みがあるので、一度読み始めるとすらすらと読める。19章までのエピソードは天地創造からはじまり、楽園追放、カインとアベルノアの方舟バベルの塔、そしてソドムの滅亡などの有名エピソードが矢継ぎ早に登場する。こんな有名なエピソードが冒頭20ページほどで登場するとは思わなかった。自分がいかに聖書を読んでこなかったのかを思い知らされる。

特に楽園追放のエピソードについては、先にジョン・ミルトンが書いた『失楽園』を読んでいたので、もっと長く語られるものかと思っていたのだが、わずか2・3ページで終わってしまって驚いた。この短いエピソードを岩波文の上下巻のサイズまでふくらませたミルトンの想像力に舌を巻いた。

その他にもカインとアベルスタインベックエデンの東』の、バベルの塔テッド・チャンの『バビロンの塔』(『あなたの人生の物語』に収録)の題材になっていることが想起される。このように連想してみると聖書というのは本当に海外文学の基盤となっていることがわかって、大変に好奇心が掻き立てられる。聖書を読むのはもっと厳かでなければならないのだと思ってはいるのだけど。

また、全体的な感想として、人と神の関係が契約によってしきりに確認される点が特に印象的だった。また、ソドム滅亡の際にアブラハムが神とソドム滅亡取りやめの条件について交渉する場面は、申し訳ないけれども値切り交渉のように思えてしまった。ユダヤ人が商売上手といわれるのはこういう聖書における契約の思想が根付いているからなのだろう。

自分の聖書を持つということ

先日、聖書の選択に迷っているという記事を書いたが、結局のところ新共同訳聖書にすることにした。理由は単純で、新改訳聖書が手を伸ばせるところにあることに気がつき、それならば別の翻訳版を持っていたほうがいいだろうと思ったからである*1

翻訳は新共同訳聖書にするとしても、装丁やサイズなどによって色々なバージョンがある。日本聖書教会のウェブサイトで確認できるだけでも36点もある。こうしたものは直接手に触れて確かめてみないと自分に適しているものは分からない。そこで、とあるキリスト教関係の専門店に足を伸ばして確認してみた。店頭に並んでいるものの中では、文庫サイズの小型聖書が持ち運びやすく、扱いやすいようだった。ただやはり分厚く、鞄に入れて持ち運ぶには辛い。また、表紙が薄いので、後々破れそうな懸念がわいた。薄さという点ではハーフボリュームバイブルというバージョンの聖書があり、これは少し分厚い雑誌のような形態で持ち運びやすそうだった。ただ、価格が1万円を超え、手を出すのが厳しい。

色々手にとって悩んだ末に買ったのが、DUO版という小型聖書に合成革の装丁を施したものである。これなら持ち運びもかろうじてできそうであるし、外で開いたとしてもあまり人の注意を引かなさそうであると考えて選んだ。

小型聖書 DUO(赤) - 新共同訳

小型聖書 DUO(赤) - 新共同訳

購入した時には、ついに自分だけの聖書を手にしたのだなという感慨に浸った。別に洗礼を受けてもいないのに、聖書を手にしたことに感動するのは滑稽かもしれない。しかし、特別な気分になったのは紛れもない事実だ。

不思議なことに、今まで偶然手にした聖書を読んでいた時と、自分が選んだ聖書を読んでいる時では言葉の受け取り方というか、こちらの読む姿勢というものが変わった気がする。今まで聖書を読むときには、それが誰かからの借り物の言葉という感じがいつもした。たまたま手元にあったから読んでいるだけで、本気で個々に書かれた言葉を理解しようとは思わない。そう自分に言い訳する機会がまだあったから、私は聖書にきちんと向き合えていなかった。しかし今は違う。これを読んでいるということが、私がこの書を選んだことを常に意識させる。それは逆に、自分はこれを手にした理由を常に問い続けるようになる。

自分の意志と選択の証として自分だけの聖書を手にしたのだ。すくなくとも、私はこの書物の中の言葉に惹かれたのだと。この書物に託された信念に何か希望を見出したのだと。そういうことの証としていま目の前にこの書はあるのだ。

後になって、私は私を嘲笑うかもしれない。私のこの経験は、過ぎ去っていく私の思索の過程にしか過ぎないのかもしれない。けれど今この時だけは、自分の新たな拠り所を自分の意志で手にしたことの喜びに浸っていたい。

これからの私の心の行く末は私にはわかりようがないのだから。

*1:この他にも引照付きかそうでないかを決める必要があったのだが、新改訳聖書の方は引照付きであったので、それなら自分の聖書にはまだ引照は無くても後で確認できるだろうと、まずは引照のないものにすることにした。

『告白』下巻に着手する

アウグスティヌスの『告白』上巻を先日読み終えた。

告白 上 (岩波文庫 青 805-1)

告白 上 (岩波文庫 青 805-1)

上巻はアウグスティヌスの人生録であり、出生から母の死、そして改心にいたるまでを神に語りかけている。語りかける相手は既に自分よりも自分のことを知っているという前提があるので、当時の生活や歴史的背景すらもろくにしらない私にはちょっと良くわからないところがあり、なかなか読むのに苦労した。それでも、作者の信仰心の篤さは十分すぎるほど伝わってくるので、なんだかよくわからないままに胸にジンとくるものがあった。

そして、いまは『告白』の下巻に着手している。

告白 (下) (岩波文庫)

告白 (下) (岩波文庫)

下巻は上巻とは打って変わって哲学的な思索が展開される。アウグスティヌスは、神のおわす場所というものを自分の精神の内側に求める。そして、その精神の拠り所として記憶に着目する。曰く、私たちは物質的な存在を感覚を通して物事を知り、記憶する。そして、私たちがその者について考えるときには、記憶されたもの事や心象を頼りにする。ところが、私たちが考えるときに思い浮かべるものには、感覚を通さずに記憶したものがある。数や愛の概念といったものがそれであると。アウグスティヌスはこういう、自分の精神の内側にしか確かめられないようなものに着目して、そこから神のおわす場所と、神に語りかけるとはどういうことなのかということを考えようとする。

数の概念については、後にフッサールという哲学者がまさに同名の哲学書を書いている。また、愛や数といった直接経験できない観念と感覚を通して得た観念とを区別するのはカントの『純粋理性批判』を連想させる。やはり、こうした西洋哲学の根本にアウグスティヌスの思索や、そのおおもとになったプラトンの思想が横たわっているということを実感する。

聖書の選択に迷う

細々と手元にあるギデオン協会の新約聖書を読みはじめている。ただ、聖書の通読は旧約から始めるのがよいと思うので、きちんと新旧約聖書を買っておきたいところだ。

ただ聖書を買うときに悩むのは、どの翻訳のバージョンを選ぶかということだ。聖書に触れたことのある人には常識的なことだろうが、キリスト教徒が用いる聖書の日本語訳として代表的なものに「口語訳」「新改訳」「新共同訳」の3種類の翻訳がある。そしてこれらの訳について言及した記事を探してみると、どの翻訳版でも賛否両論あり、初学者には何が適当なのか全くわからない。

たいていのキリスト教徒の初学者は、所属している教会が礼拝に採用している翻訳を選択するのであろう。しかし、私のような特にどこの教会にも属していない人間は自分自身で決定しなければならない。 実に悩ましい。

いまのところキリスト教徒ではないので、実質教養として読むということなのであれば、岩波文庫版でもよいのではないかという意見もあるだろうけれども、やはりそれには抵抗がある。やはりどこか自分なりの信仰を掴みたいという思いながら聖書を読んでいるのだろうと思う。

今のところはカトリックとプロテスタントが協働で翻訳した新共同訳を選ぼうとは思っている。でも新共同訳聖書に対する批判のウェブページをみると、どうしようかとまた悩む。

善悪の基準にこだわるな、祈れ

善がわからない - 反社会的な中学生

善悪について上手く語れる気がしないので、リンク先の人にならって思うままに書いてみる。たぶんリンク先の人の回答にはまるでなっていない。あくまでも自分が同じ心境に駆られる時のことを考えてみた。

自分のすることが本当に良いことなのだろうかと思い悩むことは日常で多々ある。 悩んだ結果実行したことが裏目に出て恥を書いたことも多い。取り返しの付かない失敗をしたこともある。もしかしたらリンク先の人のいうように、巡り巡って自分の行動が人を殺すことにつながるかもしれない。そういうことを考えると、憂鬱になる。人とあって話すことも気が重くなる。不安が重なって悪循環となり、自分がどんどん嫌いになっていく。しまいには自分の両耳に向けて誰かが「死ね」と、蝉の鳴き声のようにささやかれているイメージが湧く。何もしたくなくなる。普段歩いていても目の前がぼんやりとして、目隠しの隙間から物事をみているような気分になる。

自分がネガティブになるときの心境をそのまま書いてみたけれど、こういう心境に陥るのは、常に正しい人間であろうとして、自分自身を攻撃するもう一人の自分を制御しきれなくなっているからだと思う。自動車を制御するのにブレーキは欠かせないけれども、ブレーキを走行中にかけ過ぎるとかえって危ない。制御できる範囲でアクセルをかけて(=行動して)、適当なところで力を抜く。そして停止ポイントを見極めてゆっくりとブレーキをかける(=自分を批判する)。本来、行動の結果が善か悪かを問うて批判するのは終わった後にすることだ。最初からそうしていては何もできなくなる。

善悪の基準は、いつも因果の決まった過去の出来事にしかあてはめて反省することしか使えない。これからの自分の人生を保証してくれるものではない。私達は、自分にあらかじめ備わった倫理を本能的に発露していくしか術がない。それが人を救うのか、人を殺すのかを予測するような能力は備わっていない。ただ実践すること、そして実践の結果を受け入れることを覚悟する以外の心がけはない。

あるとき間違ったことをして、大勢の人間から非難されたとしても、それは自分の善悪の基準が歪んでいたからではない。そうなる宿命にあったというだけのことだ。

自分が善人でありたいと思う。でも確実にそうなるために必要な善悪の基準が分からないので、自分に徹底的に厳しくなり、やがて自己否定にいたる。このような絶望的な考え方は、他人に認められたいことの現れなんだと思う。そのままの自分はきっと他人には認められないだろうと思って、認められるために善行をなし悪行を避けるようになる。でも、ほんの少しの実践で得られる承認は本当にわずかなもので、その人が必要とする承認の水準にはまだ足りない。だから、もっと善人でありたいと願うようになる。悪人になるのを怖がるようになる。

でも最近の自分は思う。結局のところは自分が望むように承認や赦しを与えてくれる他人にはそうそう出会えないし、いつまでも継続するものではない。いつか人はそれを諦めなければならない。そして自分が完全な善人にはなりえない、けれど生き続けなければならないということに向き合わなければならない。

信仰というものは、こういう暗闇のなかで走らざるおえない性や、いつまでも赦しを求め続ける性を抱える人間に光明を与えるものだと思う。結局、誰からも完璧な承認が認められないとき、人間にはもう祈ることしか残されてない。祈る相手が神であろうと、現代社会に適当な代替概念であろうとそれは問題ではない。ただ、無限に赦してくれる、認めてくれる存在を自分の内面に求めることが人生に必要なのだと思う。

そんな存在を得ることができれば、過剰な善悪へのこだわりは、もっと自然なものへ、人生に必要な程度へと落ち着くだろう。私はそうありたい。

リンク先の人も最後は神様の名を呼んだし、一応関連した記事をかけたのではないかと思ってここで筆を置く。

関連する(とおもった本)

衆生の倫理 (ちくま新書)

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死にいたる病 (ちくま学芸文庫)

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パウロ (センチュリーブックス 人と思想 63)

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クエーカーについてのメモ

クエーカー(信者の間ではキリスト友会と呼ぶらしい)は、キリスト教の中の禅宗とも呼べる特殊なプロテスタント教派である。 いわゆる「プログラムのないクエーカー」と呼ばれる元々のコンセプトに近いグループは教会に属さず、牧師を置かず、代わりとなる集会では向かい合って沈黙し瞑想する。聖霊からの導きがあったと感じた信者は立ち上がって聖霊からの言葉として他の人びとに告げる。 他の教派に近い「プログラムのあるクエーカー」の集会では賛美歌や牧師による説教があるらしいけれど、プログラムのないクエーカーはそういったキリスト教的要素がほとんどない。

信仰の核となるのは「内なる光」である。神はそれぞれの身体の内側に存在している。内面から語りかけてくる言葉を待つよう瞑想することが最も大事な信仰のスタイルであると考える。

また、すべての人の内面には神がいるので、他の教派とは異なり、すべての人が救済されると考えているらしい。その思想のゆえか、クエーカーは公平であることを重視して差別撤廃運動や平和活動に熱心である。男女平等を早期から提唱していることでも知られている。

日本では新渡戸稲造が信仰していた教派として知られている。神谷美恵子もクエーカーに対する関心を寄せていた。また、現天皇の家庭教師はクエーカーであった。教義に厳格でなく、公平である点が日本には親和性があるのかもしれない。

クエーカーの信仰スタイルは私の考える理想の信仰の姿に近い。やはり仏教になじみがあるからなのか。