路上の羊

聖書の通読に挑戦中

愛そのものが見捨てられないところに

わたしの魂よ、むなしいものとなるな。あなたのむなしい騒ぎで心の耳をふさぐな。おまえもきけ、みことばそのものがおまえに立ち帰れと叫んでおられる。愛そのものが見捨てられないところに、そこに乱されない休息の場所がある。

告白 上 (岩波文庫 青 805-1)』p.110

最愛の友人を亡くしたことに触れた第四巻の後半では、この世にあるものの儚さに思いを馳せ、それと同時に決して変わることも失われることもない神の偉大さについて語っている。アウグスティヌスの思想についてはまだあまり把握していないけれども、このあたりで語られる「時間とともに変わりゆく世界」と「時間の外にいる神」の関係性はアウグスティヌスの思想を予告しているように思える。

冒頭に引用した第四巻 第十一章の言葉には胸を突かれた。だれでも別れや裏切りやすれ違いで他人への愛をなくしてしまうことがある。どうしてもその人が愛せなくなってしまうときがあるかと思う。そういうときには、愛情に満たされることが必要なのだと思う。普通の人間であれば、そうした愛情が人間関係の中に探し求めてしまい、ますますさまようはめになる。けれどもアウグスティヌスは、無常の現世に求めることを否定して、不変の世界を心のうちに見出して、そのなかで愛情に満たされたのだ。

私もいま、人を愛することがなかなかできないでいる。何の苦労もせず、人を信頼して共に楽しんでいることを疑わない状況に身を置きたいと思っている。その状態を作り出すために、私もまた休息の場所を見出す必要があるのだと思う。それがキリスト教的な神の前にいることかどうかは分からないけれど。

告白 上 (岩波文庫 青 805-1)

告白 上 (岩波文庫 青 805-1)

ブログを書くのは、鏡の前に立つことと似ている

「ブログはじめたいなと思ってます、アドバイスください」 - インターネットもぐもぐ

一番大事なのは「自分が当たり前だと思っていることこそ丁寧に書く」、だと思います。とにかく個人的なことを、地に足をつけて書く、それに尽きる。有名人でも専門家でもないんだもの。生活ぶりや考え方に息遣いを感じる「一般人」になりましょう。かっこつけて書いたって読み手はきゅんとこないんです。まじでまじで。

 

そういう個人的な見解や思考をあたためる文章書きはじめるときに一番大事なのは「自分が書きたいことって結局なんなんだろ?」を自覚することなんですよねえ。

シンプルだけど、このアドバイスは自分がなかなかできないことを言い当てているようで心に刺さった。

普通の人として、生活感のある文章を書くことができない。今まで私は、場所を変えつつ10年ぐらいはブログに記事を書いてきた。しかし、その中にいくつ私の息遣いの感じられる文章は数えるほどしか無い気がする。

考えてみれば、私はそういう生活感や自分の息遣いをできるだけ取り除こうとしていたのだと思う。私にとってそういう要素は、ブログ記事の価値を下げるものだと思っていた。どこか自分の生き方を否定しているフシがある。

でも、「自分が書きたいこと」を考えてみると、それはやっぱり自分のことなのだと思う。自分の生き方を書くことで肯定をしたいというか。毎日の中で感じていることが消え去らないようにしておきたいというか。

鏡の前に立つときは私はいつも一度うつむいてから鏡に向かい合う。自分の顔をみるときの、あの一瞬の違和感に不安を感じるからだ。自分の顔を確かめたい。でも、俯いている。何気ない動作の中に現れたこの一瞬の矛盾が、書くということの適切な比喩になる。間延びしてディスプレイに映る、確かめたいのに確かめたくなくて偽装する。私が今まで書いてきたブログはそういうものだとおもう。

別に思い切り書いたからといってなにか特別なものがあるわけでもない。普通の人として、思い切り自分の何の変哲もない内面を表せればなと思う。

今はキリスト教のことをメインテーマに据えたこのブログだけれども、自分がてらいなく記事を書く最初の場になれればいいなあ。

「書くことは祈ること」を体現する人 - アウグスティヌス『告白』

「書くことは祈りの形式である」という言葉をきいたことがある。祈りの行為という意味では、アウグスティヌスの『告白』は最も純粋な著作だろう。

告白 上 (岩波文庫 青 805-1)

告白 上 (岩波文庫 青 805-1)

『告白』は神に語りかける形式でアウグスティヌスの人生とその果ての信仰を記述した著作である。そのあまりにも奇妙な文体はしばしば非常に小説的であるとして取り上げられる。私は保坂和志が『小説の自由』でしきりに引用していたのをみて、本書のことを知った。

今回、本書を手にとってみて非常に印象的なのはアウグスティヌスは自分の幼少の人生について、すべて疑問形で語っていることだ。特に幼少時のことは、自分にははっきりした記憶が無いので、伝聞であることを何度も強調する。アウグスティヌスにとって、これから語ることはすべて神は知っていて、彼にとってはそれを追認することでしかないのだろう。

文章の書き手に求められる最重要にして唯一の気質は、書くことに誠実であることだと思う。物語が虚構であっても、自分が伝えたいことやイメージしたことに嘘をついてはならない。アウグスティヌスは、おそらく書き手の中でもっとも誠実であろうとした書き手なのだと思う。

なぜアウグスティヌスはそこまで誠実であろうとするのか。それはまさしく『告白』が祈りの儀式であるからに他ならない。彼の信仰心が誠実な文章を生んだのである。

わたしはだれにむかってこのことを話しているのか、神よ、あなたにむかってではない。あなたのもとでわたしの同胞を語るのである。わたしのこの書物をひもとくものがどんなに少なかろうと、そのわずかなものに語るのである。それでは何のために語るのであるか。それはわたしとそれを読むものみなが、どんなに深い淵からあなたを呼び求むべきかを考えるためである。実際、告白する心と信仰に生きる生活よりも、あなたの耳に近いものがあろうか。

-- 告白 上 (岩波文庫 青 805-1)』p.49

『沈黙』 : 弱者への眼差し

遠藤周作の『沈黙』を読む。

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

本書は江戸時代の日本にたどり着いた宣教師ロドリゴが、苦しい生活を強いられている農民の布教活動を行い、捕らえられ、棄教するまでを描いたキリスト教文学である。中心となるストーリーはシンプルであるが、キリシタン弾圧の描写などが生々しく、いつ拷問にかけられるかわからないロドリゴの緊張感が伝わってきて飽きることがない。

「なぜキリスト者がこんなにも虐げられているのに、神は沈黙したままなのか」

ロドリゴの問いは、キリスト教にまつわる文章を読むとしばしば出てくる。ヨブ記以来の代表的な神学的テーマともいえるだろう。そういう意味ではこの小説は王道的な作品である。しかし、神の沈黙の問いをユダの裏切りの意味へとつなげ、そこから棄教することの救いを書くというロドリゴの思考過程は独特ではないだろうか。少なくとも私には斬新だと感じた。

『沈黙』の中心人物は語り手であるロドリゴではなく、ロドリゴにしきりに告解の儀式を求めるキチジローであるように感じる。『沈黙』は、聖職者のロドリゴがキチジローのような裏切りをどのように赦すかという試練に出会い、それが最後の「転び」によって克服する物語だと思う。

私が強く印象に残ったのが、もしキチジローがキリスト者にとって平和な世に生きていたならば、明るく人懐こいキリスト者として生きていけたかもしれない、というロドリゴの言葉である。キチジローを代表とする弱い人間は、厳しい世の中においては恐怖に簡単に負けてしまい、神に裏切ってしまう。彼ら弱者を責めるのは簡単だ。しかし、キリスト者にとってそれは正しいことなのか?

私もおそらく、『沈黙』と同じ状況に立たされればキチジローのような卑怯な人間になってしまうだろう。いや、情熱や執念という点では、あるいはキチジローにも及ばない。そういう、自分の弱さを考える度に何かを信じる力が弱まってしまうように感じる。弱者が強者になるには、自分自身の弱さとまず向き合う必要がある。『沈黙』はそういう弱さについて考えさせるための物語だと思う。

『沈黙』には日本人でありかつキリスト者である遠藤周作の懊悩が沢山詰まった作品で、とてもそれを1つの記事で語るには言葉も気力も足りない。いずれまた宗教思想についての知識や自分なりの考えが深まったところで、再度とりあげたいと思う。そう思うぐらい熱中して読んだ。

増田から記事を引っ越した

増田(はてな匿名ダイアリー)で書いていた、宗教関連書についての読書日記を、はてなブログに引き上げた。当初は宗教という話しづらいテーマについての記事は増田との親和性があるかなと思ったのだけれども、書いてみるとやはり場違い感が強かった。
現状の増田は日記ではなくてやはり人生相談の場なのだなと思う。そういう場で普通に日記を書くと、なんだかいけないことをしたような気分になる。

『人と思想 パウロ』

『路上の人』つながりでキリスト教関係の書を読んでいる。今回取り上げるのは『パウロ (センチュリーブックス 人と思想 63)』。

パウロ (センチュリーブックス 人と思想 63)

パウロ (センチュリーブックス 人と思想 63)

 

キリスト教を現在につながるものに体系化した人物であるパウロがどのような人生を歩んで、どのような思想を持つようになったのかが解説されている。

パウロを通して語られるキリスト教の「赦し」や「愛」の観念の解説が新鮮だった。キリスト教というと、同性愛の禁止といった聖書の教えを忠実に守ろうとする人びとの宗教というイメージが勝手に合ったのだけれども、そういう教えを厳格に守ることを重視するのはユダヤ教的発想で、そういう態度への批判から生まれたのがキリスト教であるとしている。

なぜ教えを守ることにこだわることが問題なのだろうか。

ユダヤ教では旧約聖書にある様々な律法を守ることで神に救われると信じる。そこでは律法を守ったか否かが重要だ。しかし、自身も厳格なユダヤ教信者であったパウロはそれを否定した。律法を完璧に守ることができる人間はごく少数であり、たいていは律法を守ることができず、絶望に陥る。または律法を守り切ったことの優越感が、やがては本来の神への信仰を忘れさせてしまい、そのことを自覚した時そこでも絶望に陥る。つまるところユダヤ教の律法主義は必然的に絶望へと至ってしまうのだとパウロは考えた。

そこでパウロは、イエスを神の子と信じる原始キリスト教に意義を見出す。すなわち、人間の罪はイエスの十字架によってすべて赦された。だから人はただ神を信仰することに集中しさえすれば救われるという理屈を展開したのである。パウロはユダヤ教の持つ厳格な律法を踏襲しつつ、それを守りきれない人間の心も考慮に入れて、堕落も絶望もしない状況に人を導くように教義を設計したのだ。

以上がパウロのキリスト教の教義への貢献であり、それがゆえにキリスト教の教義を学ぶうえで重要な人物足りうるのだという。まあキリスト教についてまともに学ぶ人からすれば当たり前なのだろうけれども、無学な自分にはパウロに対する自分の偏見が訂正されたので面白かった。

『路上の人』(堀田善衞・著)

 堀田善衞の小説『路上の人』 を読んだ。 

路上の人

路上の人

 

 13世紀のヨーロッパが舞台で、カタリ派と呼ばれるキリスト教の異端教派の十字軍による征伐を背景に、路上を放浪する中年の男ヨナがキリスト教世界を放浪する物語である。

 読了後に知ったのだが、最近ジブリ森美術館で、もし映画化するとしたらという前提のもと宮崎吾朗氏が作成した絵コンテやポスターが展示されていたらしい。来年夏公開予定の新作がこの『路上の人』なのではという噂が流れているが、私はそれは到底できないと思う。もし映画化するとしたら、ジブリは子供向けアニメを届けるスタジオというイメージを完全に捨て去ることになるだろうなと思う。

 『路上の人』というタイトルはキリスト教世界において安住する場所の無い東洋人である堀田善衞自身を指している。堀田の分身であるヨナの目線で、当時のカトリック僧院の生活をかいま見て、そこで当たり前のように行われている不正や腐敗を描き出す。そして、カトリック教会とは異なる教義を持ち、慎ましく暮らすカタリ派の信者が異端審問にかけられ、虐殺されていく様を描く。これは書籍に挟み込まれた堀田と誰かの対談において、堀田自身が述べているのだが、『路上の人』は「ヨーロッパへの異議申し立て」なのである。

 ここで題材となっているカタリ派について、あまり作中では詳しく語られていないので、簡単な副読本として『カタリ派 ーー中世ヨーロッパ最大の異端』( asin:4422212206 )を読んでみた。これによると、カタリ派とは現世は悪によって生み出された地獄そのものであり、この世には一切の価値がないと考え、ただただ世界の終わりに神によって救済されることだけを願って一生を生きるという教義を持つ教派であるらしい。現世に生まれることは地獄に居ることと同じなので、生殖を目的とする性交を禁じている(ただしそれ以外の性交は禁じていないというところがユニーク)。カタリ派にとって死ぬことととは救済であるが、自殺は禁じられているので、信者はただ死が訪れることを希望として生きる。カトリック教会が特に問題視したのはキリストの人性を否定したこと、洗礼などのサクラメントの必要性を否定したことにあるようだ。

 異端という考えは正統があるからこそ生まれる。宗教の正統性は日本人にはピンと来ない問題だからこそ、『路上の人』で描写される凄惨な異端審問の様子にやるせない気持ちが生まれる。