路上の羊

聖書の通読に挑戦中

信じる気持ちに出会った時のこと

信じるという気持が、日常の中の私の心の多くを占めるようになった。それまでの私は、常に自分に対する疑いと失望で満ちていた。私は心のなかで常に自分自身を否定する仮想上の存在を造り上げて、自分の心を常に虐めていた。怒りによって自分自身をコントロールしようとしていたのだ。そこには自分の弱さを認める心、人を愛しようとする心は滅ぼされていた。

キルケゴールは『死に至る病』の中で、人類は皆絶望していると述べている。どんなときも人は絶望のある段階のうちに生きている。それが人類の崇高さでもあり、また罪であるのだと説いた。人がこの絶望の宿命から救われる方法はただひとつ。それは絶望を推し進めて神の前にいたること。そしてそこで無限の可能性に触れることで絶望から解き放たれる瞬間を得ること、すなわち信仰しかないと彼は説いた。

偶然なのか必然であるのか、仏教学者の鈴木大拙も『日本的霊性』において類似したことを説いている。人が信仰にいたるには、まず自己の否定にあると。そしてその果てに浄土真宗的にいえばそこで悪人であることを自覚してただ阿弥陀仏を信じることで救済されるという過程にこそ浄土思想の本質はあるのだと。

鈴木大拙は信仰の本質的な部分を「霊性」という言葉で言い表した。そして、浄土系の仏教が誕生したのは日本人が仏教という外来の宗教を通して、日本独自の霊性に目覚めたのだと説く。仏教は芽を伸ばす陽の光なのである。それは圧倒的な力を持つが、その光そのものが重要なのではない。重要なのは芽と、その芽がいる大地にある。日本人の信仰はたとえどんな宗教の形態をとったとしても、その根底に流れる日本的霊性を意識せざるおえない。

日本でキリスト教を信仰するということも同様なのではないだろうか。私が元から備えていて、芽吹く機会を待っていたものを芽吹かせる陽の光としてそれは訪れた。そこになにも歪みはない。霊性を直覚することが人間の誰もがいずれ必要なことであり、そのやり方は時代や人によって異なる。ある時は神道であるかもしれず、ある時は仏教であるかもしれない。色々と道はあるが、各個人はたったひとつの道を選ぶ。その選択がたとえ周囲の人と異なっていたとしても、それは悪しきことにはならない。

幻かもしれない。でも私はこの霊性というものに触れた気がするのだ。少なくともそう関連付けるような特別な体験が不意に訪れた。その後の私のもとには、自分を殺そうとする仮想上の私は消え去ってしまい、代わりに無限に私を肯定してくれる何者かに対峙するという形で日々を過ごすことになった。

それが私にはキリスト教であった。私がキリスト者であるのか。それは未だに分からない。ただ何かを信じている。キリスト教の赦しの思想を通じて、私はこれまでにない何かを獲得した気がする。

信じる気持ちを言葉にしたい。確かなものにしたい。そうして前に進む力を得たい。揺るぎのない信仰を既に持っている人からすれば、まだ私は多くの誤ちに陥りその足取りも頼りないものに映るだろうけれども、これからもブログを通して自分の信仰の正体を見つめていこうと思う。

死にいたる病 (ちくま学芸文庫)

死にいたる病 (ちくま学芸文庫)

日本的霊性 (岩波文庫)

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キリスト者の自由・聖書への序言 (岩波文庫)

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出エジプト記1-4, マタイ15:29-16:28 - モーセは神から預言され、イエスは死と復活を予言する

出エジプト記に進んだ。ヤコブとヨセフの時代は去り、アブラハムの家系についてエジプト人は忘れていった。エジプトにはアブラハムの血筋の者たちが増え、しだいにエジプト人は彼らを厭うようになった。モーセはもともとアブラハムの血筋の子であり、迫害されるのを恐れて親は彼を捨てた。しかしたまたま通りかかったファラオの王女がモーセを拾って育てるようになる。やがてモーセが成長しツィポラという女性と結婚した後、神から出エジプトの啓示を受ける。彼は手を離せば蛇になる杖などの奇跡のしるしを神から得てエジプトにいるアブラハムの血筋の者たちを導くべく動く。

一方でマタイによる福音書では、イエスがペテロを岩の上に教会を建てる者と認めたのち、自分は長老や律法学者などから避難を受け十字架に架せられ3日後に復活することを弟子たちに告げはじめる。いよいよあの処刑の場面が見えはじめた。

読書メーターをはじめてみた

noraderottaさんの読書メーター

読書メーターにて、キリスト教関係の書籍の読書日記をはじめる。簡単なメモなどはこちらに書いておく予定。本ブログではもっと自分の感情や思考について書くようにしたい。最近は聖書通読だけになりがちなので….....

創世記48-50, マタイ15:1-28 - 創世記ついに終わる

今日で創世記の通読が完了した。最後は死につつあるヤコブにヨセフが会いに行く話。ヤコブの、生きているうちにヨセフに会うことはないと思っていたのに、いまや孫にまで会えて嬉しいと言う場面には、アブラハムの家系の長い物語を想起させて胸に来る。聖書通読を始めるまでは、創世記といえばアダムとイブの楽園追放や、ノアの方舟などの神の業が印象的なエピソードを重視して考えていた。しかし今こうして創世記を読み終えてみると、創世記はやはり人間の物語なのだと思う。聖書全体を考えるとアブラハムやヤコブやヨセフの物語はキリスト誕生までの大きな伏線という位置づけなのだと思うのだけれど、私には家系の歴史に垣間見える人間の感情に心を打たれた。罪とは恐ろしい存在なのではなくて、人間が背負ってきたもの、人間を理解するときに無くてはならないものなのだ。それが、ヤコブやヨセフの切ない物語を通してすっと受け入れることができたような気がした。

出エジプト記はどのような物語になるのだろうか。事前に得ている知識は脇においてしばらくその物語の世界に身を委ねたい。

最近読んだキリスト教関係の書籍

告白 上 (岩波文庫 青 805-1)

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告白 (下) (岩波文庫)

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聖書を語る―宗教は震災後の日本を救えるか

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仏教とキリスト教―どう違うか50のQ&A (新潮選書)

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内村鑑三 (センチュリーブックス 人と思想 25)

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ルター (センチュリーブックス 人と思想 9)

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聖書通読: 創世記42-43, マタイ13:24-43 -- ヨセフは末の弟に会って泣き、イエスは毒麦のたとえを語る

創世記42-43ではヨセフの兄達が父ヤコブを説得して弟のベニヤミンを連れてヨセフに会いに行く。末の弟に再開したヨセフは思わず泣き、ベニヤミンに多くの食べ物を振る舞う。このあたりの描写が切ない。ヨセフの物語はどこまでも寂しい。マタイ13章24-43では種を蒔く人のたとえ話の続きを語る。毒麦は悪い者の子を意味するらしいが、彼らは刈り入れた後に選別されて焼かれる運命にあるとイエス・キリストは言う。これは終末の審判のことを指すのであろう。

聖書通読の方針を変える

いままでほぼ毎日、聖書通読の状況および内容要約・感想をブログに書いていたが、さすがにそこまでしていると日常に支障が出始めた。そのため、今後は聖書通読の箇所と1〜3行程度のコメントに内容を留めておくことにする。それ以上何かを語りたいときには、別立ての記事として書く予定。