『沈黙』 : 弱者への眼差し
遠藤周作の『沈黙』を読む。
- 作者: 遠藤周作
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1981/10/19
- メディア: 文庫
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本書は江戸時代の日本にたどり着いた宣教師ロドリゴが、苦しい生活を強いられている農民の布教活動を行い、捕らえられ、棄教するまでを描いたキリスト教文学である。中心となるストーリーはシンプルであるが、キリシタン弾圧の描写などが生々しく、いつ拷問にかけられるかわからないロドリゴの緊張感が伝わってきて飽きることがない。
「なぜキリスト者がこんなにも虐げられているのに、神は沈黙したままなのか」
ロドリゴの問いは、キリスト教にまつわる文章を読むとしばしば出てくる。ヨブ記以来の代表的な神学的テーマともいえるだろう。そういう意味ではこの小説は王道的な作品である。しかし、神の沈黙の問いをユダの裏切りの意味へとつなげ、そこから棄教することの救いを書くというロドリゴの思考過程は独特ではないだろうか。少なくとも私には斬新だと感じた。
『沈黙』の中心人物は語り手であるロドリゴではなく、ロドリゴにしきりに告解の儀式を求めるキチジローであるように感じる。『沈黙』は、聖職者のロドリゴがキチジローのような裏切りをどのように赦すかという試練に出会い、それが最後の「転び」によって克服する物語だと思う。
私が強く印象に残ったのが、もしキチジローがキリスト者にとって平和な世に生きていたならば、明るく人懐こいキリスト者として生きていけたかもしれない、というロドリゴの言葉である。キチジローを代表とする弱い人間は、厳しい世の中においては恐怖に簡単に負けてしまい、神に裏切ってしまう。彼ら弱者を責めるのは簡単だ。しかし、キリスト者にとってそれは正しいことなのか?
私もおそらく、『沈黙』と同じ状況に立たされればキチジローのような卑怯な人間になってしまうだろう。いや、情熱や執念という点では、あるいはキチジローにも及ばない。そういう、自分の弱さを考える度に何かを信じる力が弱まってしまうように感じる。弱者が強者になるには、自分自身の弱さとまず向き合う必要がある。『沈黙』はそういう弱さについて考えさせるための物語だと思う。
『沈黙』には日本人でありかつキリスト者である遠藤周作の懊悩が沢山詰まった作品で、とてもそれを1つの記事で語るには言葉も気力も足りない。いずれまた宗教思想についての知識や自分なりの考えが深まったところで、再度とりあげたいと思う。そう思うぐらい熱中して読んだ。