路上の羊

聖書の通読に挑戦中

聖書通読表

しばらく聖書の通読を自己流で行っている。しかし自己流なのでこういうやり方で良いのかが不安になる。そこで聖書を通読するための指南サイトがないかを平行して探してみたら、以下のサイトがあった。

聖書を通読するためのガイドや通読表が配布されている。これは非常に便利で嬉しい。聖書の内容を人物の系譜で整理した図などもある(PDF資料)。さしあたっては、「いつでも聖書通読表(PDF)」に従って聖書通読を続けるように調整しようと思う。

創世記:30-31

創世記の30章から31章までを読む。家から出たヤコブがラバンという男と出会い、そこでラケルという女性に出会い、ラバンのもとで働くことを条件に妻とすることになる。しかし、ラバンはラケルの姉のレアをさきに結婚させたかったためにヤコブを騙し、さきにレアと結ばせてしまう。しかたなくヤコブはレアとラケルの2人とも妻に迎えることとなる。その後、ヤコブの子を生むことについて色々といざこざが起こる。この辺りが詳細に書かれているのは子どもたちが後々重要な人物となることを暗示しているのだろうか。その後、ラバンのもとで働き続けることに嫌気が差したヤコブは2人の妻を連れて逃走する。

この箇所で注目したのはラバンの元から逃げ出す際に、ラバンの崇拝する守り神の像を妻が持ちだしたところである。ヤコブは妻が持ちだしたことは知らずに、追ってきたラバンに対して像を持ち出すことはしてないと主張する。結局のところラバンは像を見つけ出すことはできない。このエピソードは一体何を意味しているのだろうか。連想するのはモーセの十戒にある偶像崇拝の禁止である。このエピソードは偶像崇拝禁止にいたる暗示なのだろうか。しかし像を持ち出すということについてはどのような意味を持つのか。私には見当がつかない。それ以前の箇所でも、ヤコブがラケルと出会った時になぜ泣きだしたのかも分からない。

こういうなぞめいた箇所に出会うときには、本来牧師か神父に質問してみたほうが良いのだろうなと思う。自分ひとりだけで読むだけの危うさを早くも感じ始めている。まあとはいいつつも、実際に質問しに行くまでは踏み切れないでいる。

創世記:20-29

今日は創世記の20章から29章まで読み進めた。アブラハム・イサク・ヤコブの3代に渡る物語がメイン。この辺りではしきりに、妻が美しすぎて自分が殺されてしまうのではないかと恐れ、妻を妹として他国に入ってはいざこざが起きて追い出されるという描写が登場する。そもそもなぜ妻が美しすぎると殺されるのかちょっとよく理解ができない。妹だとしても同じなのではないか。まあ、そこはあまり気にするところではないかもしれない。このエピソードはアブラハムやイサクが様々な地を放浪する理由を説明するためのものなのだろうと思う。

ヤコブに関する話は非常に強烈だ。ヤコブは兄から長子の権力をうまく譲り受けたうえ、老いて盲目となったイサクが兄を祝福しようとすると、母からの助言で兄に成り代わって祝福を奪い取ってしまう。これがきっかけでヤコブを肉しむようになった兄から逃げる途中で、神に天国へといたる階段を見せられ、約束を果たすまで必ずお前を守るといわれる。ヤコブが成したことは普通に考えれば悪しき行いであって、少なくともカインのように罰せられてもおかしくないように感じるのだが、そういうことはない。ただ、神もヤコブを積極的に祝福しているという感じではなく、なんだかアブラハムとの契約を順守するためにヤコブを守っているというような感じがする。契約を果たすことが第一優先であって、個々の行いについてはとやかく言うことはないという考えなのだろうか。

創世記 1-19章

今日から聖書の通読を始めることとする。創世記のエピソードには馴染みがあるので、一度読み始めるとすらすらと読める。19章までのエピソードは天地創造からはじまり、楽園追放、カインとアベルノアの方舟バベルの塔、そしてソドムの滅亡などの有名エピソードが矢継ぎ早に登場する。こんな有名なエピソードが冒頭20ページほどで登場するとは思わなかった。自分がいかに聖書を読んでこなかったのかを思い知らされる。

特に楽園追放のエピソードについては、先にジョン・ミルトンが書いた『失楽園』を読んでいたので、もっと長く語られるものかと思っていたのだが、わずか2・3ページで終わってしまって驚いた。この短いエピソードを岩波文の上下巻のサイズまでふくらませたミルトンの想像力に舌を巻いた。

その他にもカインとアベルスタインベックエデンの東』の、バベルの塔テッド・チャンの『バビロンの塔』(『あなたの人生の物語』に収録)の題材になっていることが想起される。このように連想してみると聖書というのは本当に海外文学の基盤となっていることがわかって、大変に好奇心が掻き立てられる。聖書を読むのはもっと厳かでなければならないのだと思ってはいるのだけど。

また、全体的な感想として、人と神の関係が契約によってしきりに確認される点が特に印象的だった。また、ソドム滅亡の際にアブラハムが神とソドム滅亡取りやめの条件について交渉する場面は、申し訳ないけれども値切り交渉のように思えてしまった。ユダヤ人が商売上手といわれるのはこういう聖書における契約の思想が根付いているからなのだろう。

自分の聖書を持つということ

先日、聖書の選択に迷っているという記事を書いたが、結局のところ新共同訳聖書にすることにした。理由は単純で、新改訳聖書が手を伸ばせるところにあることに気がつき、それならば別の翻訳版を持っていたほうがいいだろうと思ったからである*1

翻訳は新共同訳聖書にするとしても、装丁やサイズなどによって色々なバージョンがある。日本聖書教会のウェブサイトで確認できるだけでも36点もある。こうしたものは直接手に触れて確かめてみないと自分に適しているものは分からない。そこで、とあるキリスト教関係の専門店に足を伸ばして確認してみた。店頭に並んでいるものの中では、文庫サイズの小型聖書が持ち運びやすく、扱いやすいようだった。ただやはり分厚く、鞄に入れて持ち運ぶには辛い。また、表紙が薄いので、後々破れそうな懸念がわいた。薄さという点ではハーフボリュームバイブルというバージョンの聖書があり、これは少し分厚い雑誌のような形態で持ち運びやすそうだった。ただ、価格が1万円を超え、手を出すのが厳しい。

色々手にとって悩んだ末に買ったのが、DUO版という小型聖書に合成革の装丁を施したものである。これなら持ち運びもかろうじてできそうであるし、外で開いたとしてもあまり人の注意を引かなさそうであると考えて選んだ。

小型聖書 DUO(赤) - 新共同訳

小型聖書 DUO(赤) - 新共同訳

購入した時には、ついに自分だけの聖書を手にしたのだなという感慨に浸った。別に洗礼を受けてもいないのに、聖書を手にしたことに感動するのは滑稽かもしれない。しかし、特別な気分になったのは紛れもない事実だ。

不思議なことに、今まで偶然手にした聖書を読んでいた時と、自分が選んだ聖書を読んでいる時では言葉の受け取り方というか、こちらの読む姿勢というものが変わった気がする。今まで聖書を読むときには、それが誰かからの借り物の言葉という感じがいつもした。たまたま手元にあったから読んでいるだけで、本気で個々に書かれた言葉を理解しようとは思わない。そう自分に言い訳する機会がまだあったから、私は聖書にきちんと向き合えていなかった。しかし今は違う。これを読んでいるということが、私がこの書を選んだことを常に意識させる。それは逆に、自分はこれを手にした理由を常に問い続けるようになる。

自分の意志と選択の証として自分だけの聖書を手にしたのだ。すくなくとも、私はこの書物の中の言葉に惹かれたのだと。この書物に託された信念に何か希望を見出したのだと。そういうことの証としていま目の前にこの書はあるのだ。

後になって、私は私を嘲笑うかもしれない。私のこの経験は、過ぎ去っていく私の思索の過程にしか過ぎないのかもしれない。けれど今この時だけは、自分の新たな拠り所を自分の意志で手にしたことの喜びに浸っていたい。

これからの私の心の行く末は私にはわかりようがないのだから。

*1:この他にも引照付きかそうでないかを決める必要があったのだが、新改訳聖書の方は引照付きであったので、それなら自分の聖書にはまだ引照は無くても後で確認できるだろうと、まずは引照のないものにすることにした。

聖書の選択に迷う

細々と手元にあるギデオン協会の新約聖書を読みはじめている。ただ、聖書の通読は旧約から始めるのがよいと思うので、きちんと新旧約聖書を買っておきたいところだ。

ただ聖書を買うときに悩むのは、どの翻訳のバージョンを選ぶかということだ。聖書に触れたことのある人には常識的なことだろうが、キリスト教徒が用いる聖書の日本語訳として代表的なものに「口語訳」「新改訳」「新共同訳」の3種類の翻訳がある。そしてこれらの訳について言及した記事を探してみると、どの翻訳版でも賛否両論あり、初学者には何が適当なのか全くわからない。

たいていのキリスト教徒の初学者は、所属している教会が礼拝に採用している翻訳を選択するのであろう。しかし、私のような特にどこの教会にも属していない人間は自分自身で決定しなければならない。 実に悩ましい。

いまのところキリスト教徒ではないので、実質教養として読むということなのであれば、岩波文庫版でもよいのではないかという意見もあるだろうけれども、やはりそれには抵抗がある。やはりどこか自分なりの信仰を掴みたいという思いながら聖書を読んでいるのだろうと思う。

今のところはカトリックとプロテスタントが協働で翻訳した新共同訳を選ぼうとは思っている。でも新共同訳聖書に対する批判のウェブページをみると、どうしようかとまた悩む。