路上の羊

聖書の通読に挑戦中

創世記38-40, マタイ12:22-50 -- ヨセフは投獄され、イエスは霊について語る

創世記38-40

創世記38章ではヨセフの兄ユダのエピソードが唐突に挿入されている。ユダはシュアという妻と結婚し、エルとオナンとシェラという3人の息子を得る。そして、エルはタマルという嫁を得るのだが、「主の意に反したので、主は彼を殺さ」れてしまう。理由は特に書かれていない。そこでユダはタマルに子を産ませるためにオナンにタマルと関係を持つように命じる。オナンはタマルと関係を持って子を得てもそれが自分の子にならないことを知っていたので、タマルと関係を持つ度に「子種を地面に流した」。これは主の意に反しているので主は彼も殺してしまう。

オナンのエピソードは自慰行為をオナニーと呼ぶことの由来とされているが、ここではどちらかといえば膣外射精のことを直接には指している。重要な点は主の「産めよ増やせよ」という意思に反して、子を産まないように処置をすることにあるので、自慰行為も同様のものとして捉えるようになったのだろうかと思う。コンドームなどの避妊具の禁止もこの辺りが根拠になっているのだろう。

エピソードは続く。2人の息子を亡くしたユダはタマルも死なれては困ると思い、タマルをシェラと結婚させるためにタマルを誰とも再婚させないように家に置く。しかしシェラが成人するようになっても一向に結婚する気配のないことからタマルは一計を案じる。タマルは神殿娼婦(売春を行う巫女のこと、そういう役職があった)になりすましてユダと関係を結び、その際に報酬をもらう代わりとしてユダの印章を得る。やがてタマルは姦淫を犯したということで捕らえられるが、タマルがユダの印章を差し出すとユダは彼女が正しいと思い、ユダはタマルと関係を持つことは今後無かった。そして、やがてタマルはペレツとゼラという2人の子供を産む。

全体的にここのエピソードは性に関する旧約世界の道徳意識が強く現れ出ていると思う。これは意図されているのか、偶然かは分からない。

創世記39章ではヨセフがエジプトに連れて来られた後のエピソードが語られる。ヨセフは神の導きもあり、エジプトの主人に重用されるようになり、主人の家の一切をヨセフが取り仕切るようになる。そこでヨセフは主人の妻に誘惑され続け、ヨセフは拒み続ける。拒否されたことに怒ったその妻はヨセフが自分に乱暴を働こうとしたと虚偽の告発をして、ヨセフは投獄される。40章では牢獄の中で、同じく投獄されていたファラオの給仕役の長と料理人が見た夢を解き明かし、彼らの未来を予言する。

ヨセフのエピソードで度々現れるのは、予言としての夢である。神が直接話しかけるなどの場面はあっても、夢に関するエピソードというのはこれ以前ではあまり見かけない。夢といえば精神分析学が思い浮かぶし、宗教思想の心理学的解釈を行ったユングなどを連想する。この辺りのエピソードは精神分析的な考察がなされているのだろうか。少し興味がある。

マタイ12:22-50

マタイ12章22節から50節では、聖霊に背くことの罪について主にイエスが語られている。

わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、"霊"に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることはない。

-- マタイ12:30-32 (聖書 新共同訳より)

この聖霊に背くことというのが私にはよく分からない。そもそも聖霊についての理解が足りない。イエス・キリストさえも赦されないという聖霊とはいかなるものなのだろうか。少し気になるのは、その直後にくるイエス・キリストの言葉である。

蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。

-- マタイ12:34-37 (聖書 新共同訳より)

この言葉にある「良いもの」「悪いもの」は、人間のまごころのことを指しているように読めた。この言葉が前述の言葉と関連を持つのだとすれば、霊に言い逆らうとは自身の心に反することを指すのだろうか。いや、何か外しているような気がする。

この点についてはしっかり神学的な説明や解説を読んだほうがいいのかもしれない。