路上の羊

聖書の通読に挑戦中

『告白』下巻に着手する

アウグスティヌスの『告白』上巻を先日読み終えた。

告白 上 (岩波文庫 青 805-1)

告白 上 (岩波文庫 青 805-1)

上巻はアウグスティヌスの人生録であり、出生から母の死、そして改心にいたるまでを神に語りかけている。語りかける相手は既に自分よりも自分のことを知っているという前提があるので、当時の生活や歴史的背景すらもろくにしらない私にはちょっと良くわからないところがあり、なかなか読むのに苦労した。それでも、作者の信仰心の篤さは十分すぎるほど伝わってくるので、なんだかよくわからないままに胸にジンとくるものがあった。

そして、いまは『告白』の下巻に着手している。

告白 (下) (岩波文庫)

告白 (下) (岩波文庫)

下巻は上巻とは打って変わって哲学的な思索が展開される。アウグスティヌスは、神のおわす場所というものを自分の精神の内側に求める。そして、その精神の拠り所として記憶に着目する。曰く、私たちは物質的な存在を感覚を通して物事を知り、記憶する。そして、私たちがその者について考えるときには、記憶されたもの事や心象を頼りにする。ところが、私たちが考えるときに思い浮かべるものには、感覚を通さずに記憶したものがある。数や愛の概念といったものがそれであると。アウグスティヌスはこういう、自分の精神の内側にしか確かめられないようなものに着目して、そこから神のおわす場所と、神に語りかけるとはどういうことなのかということを考えようとする。

数の概念については、後にフッサールという哲学者がまさに同名の哲学書を書いている。また、愛や数といった直接経験できない観念と感覚を通して得た観念とを区別するのはカントの『純粋理性批判』を連想させる。やはり、こうした西洋哲学の根本にアウグスティヌスの思索や、そのおおもとになったプラトンの思想が横たわっているということを実感する。