路上の羊

聖書の通読に挑戦中

創世記:36-37, マタイ12:1-21 -- ヨセフは奴隷として売られ、イエスは安息日を語る

創世記:36-37

創世記36章ではエサウの系譜についてしばらく説明が続く。その後、ヤコブの息子ヨセフのエピソードがはじまる。

ヨセフはヤコブが年老いてから生まれた子供であるため特別に愛されていた。しかしヨセフは、兄や両親がヨセフにいつかひれ伏す(=ヨセフが王になる)ことを暗示させるような夢をみたことをしきりに話すようになり、いつしか兄たちから憎まれるようになる。ある日ヤコブがシケムの町にいる兄達のもとへ向かう途中で兄達によって穴に落とされる。その後、兄達がヤコブをどうするかを話し合っているうちに商人に拾われ、エジプトに奴隷として売られてしまう。困った兄達はヨセフから奪った衣類を羊の血に浸して、ヨセフを獣に食べられてしまったことにしてしまう。このことを告げられたヤコブは、嘆き悲しむ。おおよそこのような内容である。

ヤコブに続き、ヨセフもまた苦労の多い人生を送りそうだ。

マタイ12:1-21

マタイ12章では安息日に関する教えがイエス・キリストによって語られる。この辺りの言葉は私も過去に聞いたことがあり、馴染みがある。

もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。

-- マタイ12:7-8 (聖書 新共同訳より)

 

イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。人びとはイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を直すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」

-- マタイ12:10-12 (聖書 新共同訳より)

イエス・キリストの言葉は一貫して、人を咎めることを諌め、善い行いを称揚する。それは安息日に関する律法でさえそうだ。安息日の律法違反というものに対する感情というのは、いままで日曜日に対して宗教的な意味付けをしてこなかった私からするとよく分からない。けれども、この教えはルールが主人となっている生活のなかでは善い行いができない、あくまでも人がルールの主人となって、自分が考える善い行いへと自分自身を導いていくように律しなければならない、ということを言いたいのだと思う。システマティックな親切心、システマティックな道徳、システマティックな善人は本物にはならないのだろう。