路上の羊

聖書の通読に挑戦中

創世記:34-35, マタイ:6-11

今後は旧約と新約で見出しを立てて独立に文章を書くことにする。なお、今日以降の聖書通読は、聖書通読表に従って進行している。

創世記:34-35

ヤコブの娘ディナが辱められ、息子たちが復讐する話である。33章までのヤコブとエサウの感動の再開話とは打って変わって血なまぐさいエピソードである。ここでは、ヤコブの娘ディナがシケムという男に捕らえられ辱められることから始まり、シケムの父がシケムと同行してヤコブとその息子たちと面会し、なんでも与えるからディナと結婚させてほしいと懇願する。そこでヤコブはシケムのいる町の男たち全員に割礼を受けさせることを条件に結婚を許可した。シケムと町の男たちはそれに従って割礼を行った。ところがヤコブの息子たちは割礼間もない状態で動けない男たちを剣で殺し、シケムたちも殺し、町の物を略奪したうえで女子供を捕らえたうえで、ディナを助け出す。まあ殺さないという約束をしていないのでルール違反ではないのだけど、これはあまりにも度が過ぎていないだろうか。それもディナの一件に直接関わりがないばかりか、割礼の巻き添えにあった町の男たちまで皆殺しにするのは道理が立たないような気が…………とにかく私はこのエピソードを読んであっけにとられた。

このような血なまぐさい事件を起こしたためにヤコブたちは住処を移動することになる。このときも神様は特になんのお咎め無しでヤコブたちを導いている。このあたりは契約第一で、あまりヤコブたちの行動を気にしていないのだろうか。考えてみるとカインを神が罰した時には、カインを虐めるものには77倍の報いを受けることになると言っていたかと思う。そう考えると、ヤコブたちの報復行為に対しては神様は問題に感じていないとしてもおかしいことではないのかもしれない。旧約聖書の世界と新約聖書の世界のギャップを感じさせる。

マタイ:11:2-30

実は今朝にマタイの福音書を一気に読んで、聖書通読表の旧約聖書のペースと合せてしまったので、山上の教訓のくだりからかなり離れてしまった。これについては別に立てて語ったほうがよさそうだ。

マタイ11章では洗礼者ヨハネがイエスを弟子たちに向かって讃える。一方イエスは、数多くの軌跡の行われた町々が悔い改めなかったため、叱責するようになる。ソドムの地のほうがお前たちの町よりも軽い罰で済むだろうなど、言われればかなり厭な叱責をされる。そもそもソドムは溶岩で焼きつくされたはずなのだが、これよりも重い罰って一体なんなのだろう。空恐ろしい。このときイエスは具体的には何をみて怒ったのだろうかと思う。一向に悔い改めない姿とは一体なんなのか。この辺りのヒントはヨハネがこの世を例えたこんな言葉にあるかもしれない。

 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。 『笛を吹いたのに、 踊ってくれなかった。 葬式の歌をうたったのに、 悲しんでくれなかった。』

 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いをすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。

-- マタイ:11:17-19 (聖書 新共同訳より)

要するに、口だけを動かして知恵の正しさを誇ろうとする人びとがたくさんいるのが当時であり、知恵の正しさを働きによって証明しようとするような人がいなかった。だからこそイエスは悔い改めていないと憤慨したのだろうか。私の理解があっているかどうかは分からないが、私はそう感じた。

その他、以下のイエスの言葉はやはり印象に残る。単に休ませるのではなく、負いやすく軽い軛を与える。癒やしだけではなく新たな試練を与えるという部分にイエスの救い方の独特さがある。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

-- マタイ:11:28-30 (聖書 新共同訳より)