路上の羊

聖書の通読に挑戦中

創世記:30-31

創世記の30章から31章までを読む。家から出たヤコブがラバンという男と出会い、そこでラケルという女性に出会い、ラバンのもとで働くことを条件に妻とすることになる。しかし、ラバンはラケルの姉のレアをさきに結婚させたかったためにヤコブを騙し、さきにレアと結ばせてしまう。しかたなくヤコブはレアとラケルの2人とも妻に迎えることとなる。その後、ヤコブの子を生むことについて色々といざこざが起こる。この辺りが詳細に書かれているのは子どもたちが後々重要な人物となることを暗示しているのだろうか。その後、ラバンのもとで働き続けることに嫌気が差したヤコブは2人の妻を連れて逃走する。

この箇所で注目したのはラバンの元から逃げ出す際に、ラバンの崇拝する守り神の像を妻が持ちだしたところである。ヤコブは妻が持ちだしたことは知らずに、追ってきたラバンに対して像を持ち出すことはしてないと主張する。結局のところラバンは像を見つけ出すことはできない。このエピソードは一体何を意味しているのだろうか。連想するのはモーセの十戒にある偶像崇拝の禁止である。このエピソードは偶像崇拝禁止にいたる暗示なのだろうか。しかし像を持ち出すということについてはどのような意味を持つのか。私には見当がつかない。それ以前の箇所でも、ヤコブがラケルと出会った時になぜ泣きだしたのかも分からない。

こういうなぞめいた箇所に出会うときには、本来牧師か神父に質問してみたほうが良いのだろうなと思う。自分ひとりだけで読むだけの危うさを早くも感じ始めている。まあとはいいつつも、実際に質問しに行くまでは踏み切れないでいる。