路上の羊

聖書の通読に挑戦中

自分の聖書を持つということ

先日、聖書の選択に迷っているという記事を書いたが、結局のところ新共同訳聖書にすることにした。理由は単純で、新改訳聖書が手を伸ばせるところにあることに気がつき、それならば別の翻訳版を持っていたほうがいいだろうと思ったからである*1

翻訳は新共同訳聖書にするとしても、装丁やサイズなどによって色々なバージョンがある。日本聖書教会のウェブサイトで確認できるだけでも36点もある。こうしたものは直接手に触れて確かめてみないと自分に適しているものは分からない。そこで、とあるキリスト教関係の専門店に足を伸ばして確認してみた。店頭に並んでいるものの中では、文庫サイズの小型聖書が持ち運びやすく、扱いやすいようだった。ただやはり分厚く、鞄に入れて持ち運ぶには辛い。また、表紙が薄いので、後々破れそうな懸念がわいた。薄さという点ではハーフボリュームバイブルというバージョンの聖書があり、これは少し分厚い雑誌のような形態で持ち運びやすそうだった。ただ、価格が1万円を超え、手を出すのが厳しい。

色々手にとって悩んだ末に買ったのが、DUO版という小型聖書に合成革の装丁を施したものである。これなら持ち運びもかろうじてできそうであるし、外で開いたとしてもあまり人の注意を引かなさそうであると考えて選んだ。

小型聖書 DUO(赤) - 新共同訳

小型聖書 DUO(赤) - 新共同訳

購入した時には、ついに自分だけの聖書を手にしたのだなという感慨に浸った。別に洗礼を受けてもいないのに、聖書を手にしたことに感動するのは滑稽かもしれない。しかし、特別な気分になったのは紛れもない事実だ。

不思議なことに、今まで偶然手にした聖書を読んでいた時と、自分が選んだ聖書を読んでいる時では言葉の受け取り方というか、こちらの読む姿勢というものが変わった気がする。今まで聖書を読むときには、それが誰かからの借り物の言葉という感じがいつもした。たまたま手元にあったから読んでいるだけで、本気で個々に書かれた言葉を理解しようとは思わない。そう自分に言い訳する機会がまだあったから、私は聖書にきちんと向き合えていなかった。しかし今は違う。これを読んでいるということが、私がこの書を選んだことを常に意識させる。それは逆に、自分はこれを手にした理由を常に問い続けるようになる。

自分の意志と選択の証として自分だけの聖書を手にしたのだ。すくなくとも、私はこの書物の中の言葉に惹かれたのだと。この書物に託された信念に何か希望を見出したのだと。そういうことの証としていま目の前にこの書はあるのだ。

後になって、私は私を嘲笑うかもしれない。私のこの経験は、過ぎ去っていく私の思索の過程にしか過ぎないのかもしれない。けれど今この時だけは、自分の新たな拠り所を自分の意志で手にしたことの喜びに浸っていたい。

これからの私の心の行く末は私にはわかりようがないのだから。

*1:この他にも引照付きかそうでないかを決める必要があったのだが、新改訳聖書の方は引照付きであったので、それなら自分の聖書にはまだ引照は無くても後で確認できるだろうと、まずは引照のないものにすることにした。