路上の羊

聖書の通読に挑戦中

善悪の基準にこだわるな、祈れ

善がわからない - 反社会的な中学生

善悪について上手く語れる気がしないので、リンク先の人にならって思うままに書いてみる。たぶんリンク先の人の回答にはまるでなっていない。あくまでも自分が同じ心境に駆られる時のことを考えてみた。

自分のすることが本当に良いことなのだろうかと思い悩むことは日常で多々ある。 悩んだ結果実行したことが裏目に出て恥を書いたことも多い。取り返しの付かない失敗をしたこともある。もしかしたらリンク先の人のいうように、巡り巡って自分の行動が人を殺すことにつながるかもしれない。そういうことを考えると、憂鬱になる。人とあって話すことも気が重くなる。不安が重なって悪循環となり、自分がどんどん嫌いになっていく。しまいには自分の両耳に向けて誰かが「死ね」と、蝉の鳴き声のようにささやかれているイメージが湧く。何もしたくなくなる。普段歩いていても目の前がぼんやりとして、目隠しの隙間から物事をみているような気分になる。

自分がネガティブになるときの心境をそのまま書いてみたけれど、こういう心境に陥るのは、常に正しい人間であろうとして、自分自身を攻撃するもう一人の自分を制御しきれなくなっているからだと思う。自動車を制御するのにブレーキは欠かせないけれども、ブレーキを走行中にかけ過ぎるとかえって危ない。制御できる範囲でアクセルをかけて(=行動して)、適当なところで力を抜く。そして停止ポイントを見極めてゆっくりとブレーキをかける(=自分を批判する)。本来、行動の結果が善か悪かを問うて批判するのは終わった後にすることだ。最初からそうしていては何もできなくなる。

善悪の基準は、いつも因果の決まった過去の出来事にしかあてはめて反省することしか使えない。これからの自分の人生を保証してくれるものではない。私達は、自分にあらかじめ備わった倫理を本能的に発露していくしか術がない。それが人を救うのか、人を殺すのかを予測するような能力は備わっていない。ただ実践すること、そして実践の結果を受け入れることを覚悟する以外の心がけはない。

あるとき間違ったことをして、大勢の人間から非難されたとしても、それは自分の善悪の基準が歪んでいたからではない。そうなる宿命にあったというだけのことだ。

自分が善人でありたいと思う。でも確実にそうなるために必要な善悪の基準が分からないので、自分に徹底的に厳しくなり、やがて自己否定にいたる。このような絶望的な考え方は、他人に認められたいことの現れなんだと思う。そのままの自分はきっと他人には認められないだろうと思って、認められるために善行をなし悪行を避けるようになる。でも、ほんの少しの実践で得られる承認は本当にわずかなもので、その人が必要とする承認の水準にはまだ足りない。だから、もっと善人でありたいと願うようになる。悪人になるのを怖がるようになる。

でも最近の自分は思う。結局のところは自分が望むように承認や赦しを与えてくれる他人にはそうそう出会えないし、いつまでも継続するものではない。いつか人はそれを諦めなければならない。そして自分が完全な善人にはなりえない、けれど生き続けなければならないということに向き合わなければならない。

信仰というものは、こういう暗闇のなかで走らざるおえない性や、いつまでも赦しを求め続ける性を抱える人間に光明を与えるものだと思う。結局、誰からも完璧な承認が認められないとき、人間にはもう祈ることしか残されてない。祈る相手が神であろうと、現代社会に適当な代替概念であろうとそれは問題ではない。ただ、無限に赦してくれる、認めてくれる存在を自分の内面に求めることが人生に必要なのだと思う。

そんな存在を得ることができれば、過剰な善悪へのこだわりは、もっと自然なものへ、人生に必要な程度へと落ち着くだろう。私はそうありたい。

リンク先の人も最後は神様の名を呼んだし、一応関連した記事をかけたのではないかと思ってここで筆を置く。

関連する(とおもった本)

衆生の倫理 (ちくま新書)

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死にいたる病 (ちくま学芸文庫)

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パウロ (センチュリーブックス 人と思想 63)

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