路上の羊

聖書の通読に挑戦中

出エジプト記1-4, マタイ15:29-16:28 - モーセは神から預言され、イエスは死と復活を予言する

出エジプト記に進んだ。ヤコブとヨセフの時代は去り、アブラハムの家系についてエジプト人は忘れていった。エジプトにはアブラハムの血筋の者たちが増え、しだいにエジプト人は彼らを厭うようになった。モーセはもともとアブラハムの血筋の子であり、迫害されるのを恐れて親は彼を捨てた。しかしたまたま通りかかったファラオの王女がモーセを拾って育てるようになる。やがてモーセが成長しツィポラという女性と結婚した後、神から出エジプトの啓示を受ける。彼は手を離せば蛇になる杖などの奇跡のしるしを神から得てエジプトにいるアブラハムの血筋の者たちを導くべく動く。

一方でマタイによる福音書では、イエスがペテロを岩の上に教会を建てる者と認めたのち、自分は長老や律法学者などから避難を受け十字架に架せられ3日後に復活することを弟子たちに告げはじめる。いよいよあの処刑の場面が見えはじめた。

創世記48-50, マタイ15:1-28 - 創世記ついに終わる

今日で創世記の通読が完了した。最後は死につつあるヤコブにヨセフが会いに行く話。ヤコブの、生きているうちにヨセフに会うことはないと思っていたのに、いまや孫にまで会えて嬉しいと言う場面には、アブラハムの家系の長い物語を想起させて胸に来る。聖書通読を始めるまでは、創世記といえばアダムとイブの楽園追放や、ノアの方舟などの神の業が印象的なエピソードを重視して考えていた。しかし今こうして創世記を読み終えてみると、創世記はやはり人間の物語なのだと思う。聖書全体を考えるとアブラハムやヤコブやヨセフの物語はキリスト誕生までの大きな伏線という位置づけなのだと思うのだけれど、私には家系の歴史に垣間見える人間の感情に心を打たれた。罪とは恐ろしい存在なのではなくて、人間が背負ってきたもの、人間を理解するときに無くてはならないものなのだ。それが、ヤコブやヨセフの切ない物語を通してすっと受け入れることができたような気がした。

出エジプト記はどのような物語になるのだろうか。事前に得ている知識は脇においてしばらくその物語の世界に身を委ねたい。

聖書通読: 創世記42-43, マタイ13:24-43 -- ヨセフは末の弟に会って泣き、イエスは毒麦のたとえを語る

創世記42-43ではヨセフの兄達が父ヤコブを説得して弟のベニヤミンを連れてヨセフに会いに行く。末の弟に再開したヨセフは思わず泣き、ベニヤミンに多くの食べ物を振る舞う。このあたりの描写が切ない。ヨセフの物語はどこまでも寂しい。マタイ13章24-43では種を蒔く人のたとえ話の続きを語る。毒麦は悪い者の子を意味するらしいが、彼らは刈り入れた後に選別されて焼かれる運命にあるとイエス・キリストは言う。これは終末の審判のことを指すのであろう。

創世記38-40, マタイ12:22-50 -- ヨセフは投獄され、イエスは霊について語る

創世記38-40

創世記38章ではヨセフの兄ユダのエピソードが唐突に挿入されている。ユダはシュアという妻と結婚し、エルとオナンとシェラという3人の息子を得る。そして、エルはタマルという嫁を得るのだが、「主の意に反したので、主は彼を殺さ」れてしまう。理由は特に書かれていない。そこでユダはタマルに子を産ませるためにオナンにタマルと関係を持つように命じる。オナンはタマルと関係を持って子を得てもそれが自分の子にならないことを知っていたので、タマルと関係を持つ度に「子種を地面に流した」。これは主の意に反しているので主は彼も殺してしまう。

オナンのエピソードは自慰行為をオナニーと呼ぶことの由来とされているが、ここではどちらかといえば膣外射精のことを直接には指している。重要な点は主の「産めよ増やせよ」という意思に反して、子を産まないように処置をすることにあるので、自慰行為も同様のものとして捉えるようになったのだろうかと思う。コンドームなどの避妊具の禁止もこの辺りが根拠になっているのだろう。

エピソードは続く。2人の息子を亡くしたユダはタマルも死なれては困ると思い、タマルをシェラと結婚させるためにタマルを誰とも再婚させないように家に置く。しかしシェラが成人するようになっても一向に結婚する気配のないことからタマルは一計を案じる。タマルは神殿娼婦(売春を行う巫女のこと、そういう役職があった)になりすましてユダと関係を結び、その際に報酬をもらう代わりとしてユダの印章を得る。やがてタマルは姦淫を犯したということで捕らえられるが、タマルがユダの印章を差し出すとユダは彼女が正しいと思い、ユダはタマルと関係を持つことは今後無かった。そして、やがてタマルはペレツとゼラという2人の子供を産む。

全体的にここのエピソードは性に関する旧約世界の道徳意識が強く現れ出ていると思う。これは意図されているのか、偶然かは分からない。

創世記39章ではヨセフがエジプトに連れて来られた後のエピソードが語られる。ヨセフは神の導きもあり、エジプトの主人に重用されるようになり、主人の家の一切をヨセフが取り仕切るようになる。そこでヨセフは主人の妻に誘惑され続け、ヨセフは拒み続ける。拒否されたことに怒ったその妻はヨセフが自分に乱暴を働こうとしたと虚偽の告発をして、ヨセフは投獄される。40章では牢獄の中で、同じく投獄されていたファラオの給仕役の長と料理人が見た夢を解き明かし、彼らの未来を予言する。

ヨセフのエピソードで度々現れるのは、予言としての夢である。神が直接話しかけるなどの場面はあっても、夢に関するエピソードというのはこれ以前ではあまり見かけない。夢といえば精神分析学が思い浮かぶし、宗教思想の心理学的解釈を行ったユングなどを連想する。この辺りのエピソードは精神分析的な考察がなされているのだろうか。少し興味がある。

マタイ12:22-50

マタイ12章22節から50節では、聖霊に背くことの罪について主にイエスが語られている。

わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、"霊"に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることはない。

-- マタイ12:30-32 (聖書 新共同訳より)

この聖霊に背くことというのが私にはよく分からない。そもそも聖霊についての理解が足りない。イエス・キリストさえも赦されないという聖霊とはいかなるものなのだろうか。少し気になるのは、その直後にくるイエス・キリストの言葉である。

蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。

-- マタイ12:34-37 (聖書 新共同訳より)

この言葉にある「良いもの」「悪いもの」は、人間のまごころのことを指しているように読めた。この言葉が前述の言葉と関連を持つのだとすれば、霊に言い逆らうとは自身の心に反することを指すのだろうか。いや、何か外しているような気がする。

この点についてはしっかり神学的な説明や解説を読んだほうがいいのかもしれない。

創世記:36-37, マタイ12:1-21 -- ヨセフは奴隷として売られ、イエスは安息日を語る

創世記:36-37

創世記36章ではエサウの系譜についてしばらく説明が続く。その後、ヤコブの息子ヨセフのエピソードがはじまる。

ヨセフはヤコブが年老いてから生まれた子供であるため特別に愛されていた。しかしヨセフは、兄や両親がヨセフにいつかひれ伏す(=ヨセフが王になる)ことを暗示させるような夢をみたことをしきりに話すようになり、いつしか兄たちから憎まれるようになる。ある日ヤコブがシケムの町にいる兄達のもとへ向かう途中で兄達によって穴に落とされる。その後、兄達がヤコブをどうするかを話し合っているうちに商人に拾われ、エジプトに奴隷として売られてしまう。困った兄達はヨセフから奪った衣類を羊の血に浸して、ヨセフを獣に食べられてしまったことにしてしまう。このことを告げられたヤコブは、嘆き悲しむ。おおよそこのような内容である。

ヤコブに続き、ヨセフもまた苦労の多い人生を送りそうだ。

マタイ12:1-21

マタイ12章では安息日に関する教えがイエス・キリストによって語られる。この辺りの言葉は私も過去に聞いたことがあり、馴染みがある。

もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。

-- マタイ12:7-8 (聖書 新共同訳より)

 

イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。人びとはイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を直すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」

-- マタイ12:10-12 (聖書 新共同訳より)

イエス・キリストの言葉は一貫して、人を咎めることを諌め、善い行いを称揚する。それは安息日に関する律法でさえそうだ。安息日の律法違反というものに対する感情というのは、いままで日曜日に対して宗教的な意味付けをしてこなかった私からするとよく分からない。けれども、この教えはルールが主人となっている生活のなかでは善い行いができない、あくまでも人がルールの主人となって、自分が考える善い行いへと自分自身を導いていくように律しなければならない、ということを言いたいのだと思う。システマティックな親切心、システマティックな道徳、システマティックな善人は本物にはならないのだろう。

創世記:34-35, マタイ:6-11

今後は旧約と新約で見出しを立てて独立に文章を書くことにする。なお、今日以降の聖書通読は、聖書通読表に従って進行している。

創世記:34-35

ヤコブの娘ディナが辱められ、息子たちが復讐する話である。33章までのヤコブとエサウの感動の再開話とは打って変わって血なまぐさいエピソードである。ここでは、ヤコブの娘ディナがシケムという男に捕らえられ辱められることから始まり、シケムの父がシケムと同行してヤコブとその息子たちと面会し、なんでも与えるからディナと結婚させてほしいと懇願する。そこでヤコブはシケムのいる町の男たち全員に割礼を受けさせることを条件に結婚を許可した。シケムと町の男たちはそれに従って割礼を行った。ところがヤコブの息子たちは割礼間もない状態で動けない男たちを剣で殺し、シケムたちも殺し、町の物を略奪したうえで女子供を捕らえたうえで、ディナを助け出す。まあ殺さないという約束をしていないのでルール違反ではないのだけど、これはあまりにも度が過ぎていないだろうか。それもディナの一件に直接関わりがないばかりか、割礼の巻き添えにあった町の男たちまで皆殺しにするのは道理が立たないような気が…………とにかく私はこのエピソードを読んであっけにとられた。

このような血なまぐさい事件を起こしたためにヤコブたちは住処を移動することになる。このときも神様は特になんのお咎め無しでヤコブたちを導いている。このあたりは契約第一で、あまりヤコブたちの行動を気にしていないのだろうか。考えてみるとカインを神が罰した時には、カインを虐めるものには77倍の報いを受けることになると言っていたかと思う。そう考えると、ヤコブたちの報復行為に対しては神様は問題に感じていないとしてもおかしいことではないのかもしれない。旧約聖書の世界と新約聖書の世界のギャップを感じさせる。

マタイ:11:2-30

実は今朝にマタイの福音書を一気に読んで、聖書通読表の旧約聖書のペースと合せてしまったので、山上の教訓のくだりからかなり離れてしまった。これについては別に立てて語ったほうがよさそうだ。

マタイ11章では洗礼者ヨハネがイエスを弟子たちに向かって讃える。一方イエスは、数多くの軌跡の行われた町々が悔い改めなかったため、叱責するようになる。ソドムの地のほうがお前たちの町よりも軽い罰で済むだろうなど、言われればかなり厭な叱責をされる。そもそもソドムは溶岩で焼きつくされたはずなのだが、これよりも重い罰って一体なんなのだろう。空恐ろしい。このときイエスは具体的には何をみて怒ったのだろうかと思う。一向に悔い改めない姿とは一体なんなのか。この辺りのヒントはヨハネがこの世を例えたこんな言葉にあるかもしれない。

 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。 『笛を吹いたのに、 踊ってくれなかった。 葬式の歌をうたったのに、 悲しんでくれなかった。』

 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いをすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。

-- マタイ:11:17-19 (聖書 新共同訳より)

要するに、口だけを動かして知恵の正しさを誇ろうとする人びとがたくさんいるのが当時であり、知恵の正しさを働きによって証明しようとするような人がいなかった。だからこそイエスは悔い改めていないと憤慨したのだろうか。私の理解があっているかどうかは分からないが、私はそう感じた。

その他、以下のイエスの言葉はやはり印象に残る。単に休ませるのではなく、負いやすく軽い軛を与える。癒やしだけではなく新たな試練を与えるという部分にイエスの救い方の独特さがある。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

-- マタイ:11:28-30 (聖書 新共同訳より)

創世記:32-33, マタイ:1-5

先日紹介した聖書通読表に従って、今日から新約聖書の通読も旧約と同時並行して行うこととする。

創世記32-33章は、ヤコブが兄エサウのもとへと帰還するまでの話が書かれている。途中でヤコブは真夜中に何者かに襲われ、格闘することになる。実はその格闘した相手は神であり、その際にヤコブは祝福されることとなる。その際にヤコブの太腿の関節が外れてしまったので、それ以来ユダヤ人は関節の筋を食べないこととなった。その後、ヤコブはエサウと再会し、和解し、共に泣いた。

神との格闘のエピソードは正直、ちょっとよくわからない。関節の筋を食ベてはならない理由を述べるにしてはあまりにも豪快なエピソードすぎるように正直思ってしまった。しかもヤコブ、神に勝っちゃってるし。いいのか。全知全能の神を打ち負かしてしまっていいのか。それとも子供相手に相撲をして負けてあげるという類の配慮を神様はなされたのだろうか。よくわからない…………。

ヤコブとエサウの再会の場面には、簡潔に書かれているが心を動かされた。ヤコブの人生の物語は、愛の物語だと考えるのがしっくり来る。ヤコブはあまり意識しないままにエサウの立場を危うくさせて、エサウからの怒りを買う。ヤコブは長い時間をかけて、兄からの愛を取り戻すために放浪したのだ。アダムとエバ、カインとアベル、ノア、ロト、アブラハム、イサクといった人びとのエピソードからはヤコブとエサウの間にあるような愛情はあまり読み取れない。特に兄弟という点では、カインとアベルのエピソードとは対照的だ。聖書がこのような展開になっていることを、キリスト者はどう読み取っているのか、心が動かされただけに気になった。

一方、新約聖書のほうは、旧約に追いつくべくマタイによる福音書の第1章から第5章にいたるまでを一気に読んだ。第5章からは、律法を完成させるために行われたとされる、あの有名な「山上の教訓」がイエス・キリストによって語られる。まだ途中なので、教訓をすべて読み終わってから感想を述べたい。