路上の羊

聖書の通読に挑戦中

創世記:41, マタイ:13:1-23 -- ヨセフはエジプトを飢饉から救い、イエスは種をまく人のたとえを語る

創世記:41

創世記41章では、ファラオが夢をみるところから始まる。ファラオはまず、7頭の牛が7頭の醜い別の牛に飲み込まれるという奇妙な夢をみる。そののち、7本の麦のたわわに実る穂が7本の実のない穂に飲み込まれるという夢をみる。この夢の解釈がどうしてもできないファラオのもとに、かつてヨセフに夢を解釈してもらった給仕長がやってきてヨセフのことを話す。そこでファラオはヨセフを牢獄から出させてヨセフに夢の内容を語る。ヨセフはファラオの夢をこう解釈する。7という数字は7年のことを意味し、どちらの夢もエジプトに7年豊作の年がやってきて、その後7年間は不作に苦しめられることを予言しているのだと。その解釈に納得したファラオはヨセフをエジプト全土を司る役職に就かせ、飢饉の対策をさせることにした。ヨセフは最初の7年間のうちにエジプト中の作物を出来る限り貯蔵させ、飢饉に備えた。

果たして飢饉はやってきた。ヨセフは倉を開けて人びとに貯蔵していた作物を与えた。外の人びとにも作物を売るようにした。その外の人びとには、かつてヨセフを殺そうとした兄達も含まれていた。思わぬ再会にヨセフは、気がついていないふりをして兄達をエジプトを危うくさせる不穏なものだという嫌疑をかける。ヨセフの兄達は這いつくばり、疑いを晴らしてどうか作物を売ってくださいと懇願する。ヨセフは聞き入れず、兄達を投獄する。そしてヨセフは、兄の真意をここで初めて聞き、泣く。ヨセフは兄のうち1人を縛り上げ、さらに末の弟をここに連れて行くことを条件に兄達に作物を与えて返した。兄達が帰って作物が入った袋をみると、そこには作物代の銀貨が返されていた。

このエピソードではヨセフが兄達にかつて語った夢が実現していることがさらりと語られている。やはりヨセフの物語は夢の物語といえる。また、ヨセフはヤコブとは違い愛に恵まれていない人物として描かれているのが特徴だろうか。自分がヨセフだったら兄達にどう接するであろうか。ヨセフの涙にはどんな感情が込められていたのだろうか。ヨセフを追放した兄達の恨みであろうか。誰からも愛してもらえない悲しみであろうか。

マタイ:13:1-23

マタイ13章1-23では、「種をまく人」のたとえ話とその真意が語られる。

イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし,日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」

-- マタイ:13:3-9 (聖書 新共同訳より)

この例えはたとえ教えを受けたとしても、環境や根を持たない場合には実がなることがないということを語っているらしい。と、このようないい加減な理解をしていると、この箇所で書かれているたとえ話にしなければ話を聞かない人びとと同じだとイエス・キリストに嘆息されるだろうなと反省。

今の私もまた、種を蒔かれてもなかなか実を結ぶことのない地であるのだろう。この例えで言えば、土の浅さに依るところだ。だから私は自分自身の土を深くして肥料を与えなくてはなるまい。それが本から与えられる知識によるものなのか、日々の祈りによるものか、あるいは誰かと信仰について話をすることなのか、私にははっきりとは分からないけれど。

創世記38-40, マタイ12:22-50 -- ヨセフは投獄され、イエスは霊について語る

創世記38-40

創世記38章ではヨセフの兄ユダのエピソードが唐突に挿入されている。ユダはシュアという妻と結婚し、エルとオナンとシェラという3人の息子を得る。そして、エルはタマルという嫁を得るのだが、「主の意に反したので、主は彼を殺さ」れてしまう。理由は特に書かれていない。そこでユダはタマルに子を産ませるためにオナンにタマルと関係を持つように命じる。オナンはタマルと関係を持って子を得てもそれが自分の子にならないことを知っていたので、タマルと関係を持つ度に「子種を地面に流した」。これは主の意に反しているので主は彼も殺してしまう。

オナンのエピソードは自慰行為をオナニーと呼ぶことの由来とされているが、ここではどちらかといえば膣外射精のことを直接には指している。重要な点は主の「産めよ増やせよ」という意思に反して、子を産まないように処置をすることにあるので、自慰行為も同様のものとして捉えるようになったのだろうかと思う。コンドームなどの避妊具の禁止もこの辺りが根拠になっているのだろう。

エピソードは続く。2人の息子を亡くしたユダはタマルも死なれては困ると思い、タマルをシェラと結婚させるためにタマルを誰とも再婚させないように家に置く。しかしシェラが成人するようになっても一向に結婚する気配のないことからタマルは一計を案じる。タマルは神殿娼婦(売春を行う巫女のこと、そういう役職があった)になりすましてユダと関係を結び、その際に報酬をもらう代わりとしてユダの印章を得る。やがてタマルは姦淫を犯したということで捕らえられるが、タマルがユダの印章を差し出すとユダは彼女が正しいと思い、ユダはタマルと関係を持つことは今後無かった。そして、やがてタマルはペレツとゼラという2人の子供を産む。

全体的にここのエピソードは性に関する旧約世界の道徳意識が強く現れ出ていると思う。これは意図されているのか、偶然かは分からない。

創世記39章ではヨセフがエジプトに連れて来られた後のエピソードが語られる。ヨセフは神の導きもあり、エジプトの主人に重用されるようになり、主人の家の一切をヨセフが取り仕切るようになる。そこでヨセフは主人の妻に誘惑され続け、ヨセフは拒み続ける。拒否されたことに怒ったその妻はヨセフが自分に乱暴を働こうとしたと虚偽の告発をして、ヨセフは投獄される。40章では牢獄の中で、同じく投獄されていたファラオの給仕役の長と料理人が見た夢を解き明かし、彼らの未来を予言する。

ヨセフのエピソードで度々現れるのは、予言としての夢である。神が直接話しかけるなどの場面はあっても、夢に関するエピソードというのはこれ以前ではあまり見かけない。夢といえば精神分析学が思い浮かぶし、宗教思想の心理学的解釈を行ったユングなどを連想する。この辺りのエピソードは精神分析的な考察がなされているのだろうか。少し興味がある。

マタイ12:22-50

マタイ12章22節から50節では、聖霊に背くことの罪について主にイエスが語られている。

わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、"霊"に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることはない。

-- マタイ12:30-32 (聖書 新共同訳より)

この聖霊に背くことというのが私にはよく分からない。そもそも聖霊についての理解が足りない。イエス・キリストさえも赦されないという聖霊とはいかなるものなのだろうか。少し気になるのは、その直後にくるイエス・キリストの言葉である。

蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。

-- マタイ12:34-37 (聖書 新共同訳より)

この言葉にある「良いもの」「悪いもの」は、人間のまごころのことを指しているように読めた。この言葉が前述の言葉と関連を持つのだとすれば、霊に言い逆らうとは自身の心に反することを指すのだろうか。いや、何か外しているような気がする。

この点についてはしっかり神学的な説明や解説を読んだほうがいいのかもしれない。

創世記:36-37, マタイ12:1-21 -- ヨセフは奴隷として売られ、イエスは安息日を語る

創世記:36-37

創世記36章ではエサウの系譜についてしばらく説明が続く。その後、ヤコブの息子ヨセフのエピソードがはじまる。

ヨセフはヤコブが年老いてから生まれた子供であるため特別に愛されていた。しかしヨセフは、兄や両親がヨセフにいつかひれ伏す(=ヨセフが王になる)ことを暗示させるような夢をみたことをしきりに話すようになり、いつしか兄たちから憎まれるようになる。ある日ヤコブがシケムの町にいる兄達のもとへ向かう途中で兄達によって穴に落とされる。その後、兄達がヤコブをどうするかを話し合っているうちに商人に拾われ、エジプトに奴隷として売られてしまう。困った兄達はヨセフから奪った衣類を羊の血に浸して、ヨセフを獣に食べられてしまったことにしてしまう。このことを告げられたヤコブは、嘆き悲しむ。おおよそこのような内容である。

ヤコブに続き、ヨセフもまた苦労の多い人生を送りそうだ。

マタイ12:1-21

マタイ12章では安息日に関する教えがイエス・キリストによって語られる。この辺りの言葉は私も過去に聞いたことがあり、馴染みがある。

もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。

-- マタイ12:7-8 (聖書 新共同訳より)

 

イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。人びとはイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を直すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」

-- マタイ12:10-12 (聖書 新共同訳より)

イエス・キリストの言葉は一貫して、人を咎めることを諌め、善い行いを称揚する。それは安息日に関する律法でさえそうだ。安息日の律法違反というものに対する感情というのは、いままで日曜日に対して宗教的な意味付けをしてこなかった私からするとよく分からない。けれども、この教えはルールが主人となっている生活のなかでは善い行いができない、あくまでも人がルールの主人となって、自分が考える善い行いへと自分自身を導いていくように律しなければならない、ということを言いたいのだと思う。システマティックな親切心、システマティックな道徳、システマティックな善人は本物にはならないのだろう。

創世記:34-35, マタイ:6-11

今後は旧約と新約で見出しを立てて独立に文章を書くことにする。なお、今日以降の聖書通読は、聖書通読表に従って進行している。

創世記:34-35

ヤコブの娘ディナが辱められ、息子たちが復讐する話である。33章までのヤコブとエサウの感動の再開話とは打って変わって血なまぐさいエピソードである。ここでは、ヤコブの娘ディナがシケムという男に捕らえられ辱められることから始まり、シケムの父がシケムと同行してヤコブとその息子たちと面会し、なんでも与えるからディナと結婚させてほしいと懇願する。そこでヤコブはシケムのいる町の男たち全員に割礼を受けさせることを条件に結婚を許可した。シケムと町の男たちはそれに従って割礼を行った。ところがヤコブの息子たちは割礼間もない状態で動けない男たちを剣で殺し、シケムたちも殺し、町の物を略奪したうえで女子供を捕らえたうえで、ディナを助け出す。まあ殺さないという約束をしていないのでルール違反ではないのだけど、これはあまりにも度が過ぎていないだろうか。それもディナの一件に直接関わりがないばかりか、割礼の巻き添えにあった町の男たちまで皆殺しにするのは道理が立たないような気が…………とにかく私はこのエピソードを読んであっけにとられた。

このような血なまぐさい事件を起こしたためにヤコブたちは住処を移動することになる。このときも神様は特になんのお咎め無しでヤコブたちを導いている。このあたりは契約第一で、あまりヤコブたちの行動を気にしていないのだろうか。考えてみるとカインを神が罰した時には、カインを虐めるものには77倍の報いを受けることになると言っていたかと思う。そう考えると、ヤコブたちの報復行為に対しては神様は問題に感じていないとしてもおかしいことではないのかもしれない。旧約聖書の世界と新約聖書の世界のギャップを感じさせる。

マタイ:11:2-30

実は今朝にマタイの福音書を一気に読んで、聖書通読表の旧約聖書のペースと合せてしまったので、山上の教訓のくだりからかなり離れてしまった。これについては別に立てて語ったほうがよさそうだ。

マタイ11章では洗礼者ヨハネがイエスを弟子たちに向かって讃える。一方イエスは、数多くの軌跡の行われた町々が悔い改めなかったため、叱責するようになる。ソドムの地のほうがお前たちの町よりも軽い罰で済むだろうなど、言われればかなり厭な叱責をされる。そもそもソドムは溶岩で焼きつくされたはずなのだが、これよりも重い罰って一体なんなのだろう。空恐ろしい。このときイエスは具体的には何をみて怒ったのだろうかと思う。一向に悔い改めない姿とは一体なんなのか。この辺りのヒントはヨハネがこの世を例えたこんな言葉にあるかもしれない。

 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。 『笛を吹いたのに、 踊ってくれなかった。 葬式の歌をうたったのに、 悲しんでくれなかった。』

 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いをすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。

-- マタイ:11:17-19 (聖書 新共同訳より)

要するに、口だけを動かして知恵の正しさを誇ろうとする人びとがたくさんいるのが当時であり、知恵の正しさを働きによって証明しようとするような人がいなかった。だからこそイエスは悔い改めていないと憤慨したのだろうか。私の理解があっているかどうかは分からないが、私はそう感じた。

その他、以下のイエスの言葉はやはり印象に残る。単に休ませるのではなく、負いやすく軽い軛を与える。癒やしだけではなく新たな試練を与えるという部分にイエスの救い方の独特さがある。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

-- マタイ:11:28-30 (聖書 新共同訳より)

創世記:32-33, マタイ:1-5

先日紹介した聖書通読表に従って、今日から新約聖書の通読も旧約と同時並行して行うこととする。

創世記32-33章は、ヤコブが兄エサウのもとへと帰還するまでの話が書かれている。途中でヤコブは真夜中に何者かに襲われ、格闘することになる。実はその格闘した相手は神であり、その際にヤコブは祝福されることとなる。その際にヤコブの太腿の関節が外れてしまったので、それ以来ユダヤ人は関節の筋を食べないこととなった。その後、ヤコブはエサウと再会し、和解し、共に泣いた。

神との格闘のエピソードは正直、ちょっとよくわからない。関節の筋を食ベてはならない理由を述べるにしてはあまりにも豪快なエピソードすぎるように正直思ってしまった。しかもヤコブ、神に勝っちゃってるし。いいのか。全知全能の神を打ち負かしてしまっていいのか。それとも子供相手に相撲をして負けてあげるという類の配慮を神様はなされたのだろうか。よくわからない…………。

ヤコブとエサウの再会の場面には、簡潔に書かれているが心を動かされた。ヤコブの人生の物語は、愛の物語だと考えるのがしっくり来る。ヤコブはあまり意識しないままにエサウの立場を危うくさせて、エサウからの怒りを買う。ヤコブは長い時間をかけて、兄からの愛を取り戻すために放浪したのだ。アダムとエバ、カインとアベル、ノア、ロト、アブラハム、イサクといった人びとのエピソードからはヤコブとエサウの間にあるような愛情はあまり読み取れない。特に兄弟という点では、カインとアベルのエピソードとは対照的だ。聖書がこのような展開になっていることを、キリスト者はどう読み取っているのか、心が動かされただけに気になった。

一方、新約聖書のほうは、旧約に追いつくべくマタイによる福音書の第1章から第5章にいたるまでを一気に読んだ。第5章からは、律法を完成させるために行われたとされる、あの有名な「山上の教訓」がイエス・キリストによって語られる。まだ途中なので、教訓をすべて読み終わってから感想を述べたい。

聖書通読表

しばらく聖書の通読を自己流で行っている。しかし自己流なのでこういうやり方で良いのかが不安になる。そこで聖書を通読するための指南サイトがないかを平行して探してみたら、以下のサイトがあった。

聖書を通読するためのガイドや通読表が配布されている。これは非常に便利で嬉しい。聖書の内容を人物の系譜で整理した図などもある(PDF資料)。さしあたっては、「いつでも聖書通読表(PDF)」に従って聖書通読を続けるように調整しようと思う。

創世記:30-31

創世記の30章から31章までを読む。家から出たヤコブがラバンという男と出会い、そこでラケルという女性に出会い、ラバンのもとで働くことを条件に妻とすることになる。しかし、ラバンはラケルの姉のレアをさきに結婚させたかったためにヤコブを騙し、さきにレアと結ばせてしまう。しかたなくヤコブはレアとラケルの2人とも妻に迎えることとなる。その後、ヤコブの子を生むことについて色々といざこざが起こる。この辺りが詳細に書かれているのは子どもたちが後々重要な人物となることを暗示しているのだろうか。その後、ラバンのもとで働き続けることに嫌気が差したヤコブは2人の妻を連れて逃走する。

この箇所で注目したのはラバンの元から逃げ出す際に、ラバンの崇拝する守り神の像を妻が持ちだしたところである。ヤコブは妻が持ちだしたことは知らずに、追ってきたラバンに対して像を持ち出すことはしてないと主張する。結局のところラバンは像を見つけ出すことはできない。このエピソードは一体何を意味しているのだろうか。連想するのはモーセの十戒にある偶像崇拝の禁止である。このエピソードは偶像崇拝禁止にいたる暗示なのだろうか。しかし像を持ち出すということについてはどのような意味を持つのか。私には見当がつかない。それ以前の箇所でも、ヤコブがラケルと出会った時になぜ泣きだしたのかも分からない。

こういうなぞめいた箇所に出会うときには、本来牧師か神父に質問してみたほうが良いのだろうなと思う。自分ひとりだけで読むだけの危うさを早くも感じ始めている。まあとはいいつつも、実際に質問しに行くまでは踏み切れないでいる。